なぜ人は歌うのだろうか

なぜ人は歌を歌うのだろうか。人間は歌を詠む、という以前に人間は、とりわけ現代人は、ひたすらに、ひたぶるに歌を歌っている。若者だけでなく、老若男女がカラオケボックに集い、歌う。NHKではのど自慢で己の力量をアマチュアニズム全開で世に知らしめる諸人を放映している。このように例をあげればきりがないほど、人間は、日本人は歌を愛し、歌と共に生き、成長し、死を迎えているといってよいだろう。そもそも「歌」とはなんだろうか。声を出し、唸っていれば歌なのか。そこが気になるところなのだ。演歌、フォークソング、合唱、ロックンロール、パンク、詩吟、思いつくだけでもたくさんある。それだけでもない。歌は演劇や能(謡い)、ミュージカル、映画、大道芸等の総合芸術の演出としても多々用いられている。歌そのものが主役級のコンテンツでありつつも、非常に汎用性が強いのだ。このことは日本人の生き様と多いに関連するものがあるのではあるまいかと、私自身勘ぐっている。日本は島国だ。“日本独特の文化”とはいうものの古来より日本は中国の影響を受け続け(和魂漢才)、明治以降は西洋の文化をせっせと吸収してきた(和魂洋才)というのが通説であろう。日本人には独特の融通無碍感というか、他国の長きを採用し、短きを補う的な発想や柔軟性、ないし他力本願的な感覚が染み付いている民族だと管見ながら解釈している。歌も、古来より日本は楽器にのせて浄瑠璃として歌ってきたのだろうし、現代ならアコギないしエレキギターにのせてラブ&ピースをジョンレノンを中心に発信してきた。楽器が主役か、歌(歌詞)が主役か判然としないが、歌を野球で例えるならばエースで四番バッターが主役で王様の役割を果たすことがあれば、九番ショートのようなつなぎ役ないし黒子の役割を果たすこともあるだろう(雑な例えsorry)。それだけ、日本の国のあちこちに、八百万の神々の如く存在し、輝きを放っているものが「歌」なのではないかと今更ながら感じ入るのである。続いて、日本における歌の歴史を考えてみたい。『古事記』に歌が詠まれている。スサノオが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る  その八重垣を」を歌ったのが、和歌の嚆矢と言われる。ひたすらに、執拗に、ヤエガキを連呼している。畳み掛けるリフレインが嬉しいなあ楽しいなあという気分を惹起させる。現代でいうと会いたくて会いたくて震えると歌った西野カナの如く、一本気な歌らしい歌であるといえるだろう。『古今和歌集』仮名序にはこのような記載がある。「力をもいれずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり」と。私は仮名序のこの箇所が大変気に入っている。デカルトの我思うゆえに我ありから紡がれた人間中心主義思想を背景に、人類は戦争を始め、物事を「力」で解決し、資本の力が世相を席巻している。この有様は悲しい哉現代社会のリアルな現実である。しかし、武士は喰わねど高楊枝的な発想かもしれないが、金や力だけでは心は動かぬこともあろうし、買えない側面もあるのではなかろうか。心のこもった「ありがとう」という言葉を聞くだけでも人の心は感動し、素敵な歌を聴いた瞬間、カタルシスが起こり滂沱の涙が溢れることがある。それだけ、歌には、人の心を動かすマジックパワーがある。『万葉集』で数多の歌が詠まれたように日本は古来より本の缶詰の中にたくさんの歌を保存してきた。現代に生きる我々は、幸いにも書を紐解いて、歌に触れることができる。先人が築いてきた「敷島の道」は日本人の感性の歴史でもある。昔の日本人も様々な場所で「のど自慢」をしていたと思うと、歌が大変身近なものに感じ、父祖の昔話を聞くが如く、私に迫ってくるのを感じる。コンテンポラリーソングとして『万葉集』ないし『古今和歌集』を解釈し、愉快に歌を詠み、生活の楽しみにしていきたい。