「働く」について考えてみた

 働くとはなんぞや?働くとは、命を燃やす行為であると私は考える。もちろん生活を営むため、単純に金銭を稼ぐことも働くことに含まれるであろう。しかし、働くという行為にはもっと根源的な何かが存在しているように私には感じられるのだ。労働という言葉からは、否定的な響きが感じられる。外部からの強制力によってしぶしぶ動き、しぶしぶ勤めるような何かがある。                

 しかし、働くとはそんなチンケなものであろうか。他律的なものであろうか。否。私にとって働くとは自律的であり、能動的な、生産的な作業であるはずだ。路上で大道芸を行う際、いやいや芸事をしていたであろうか。演劇やパントマイム等の作品作り、演出を行う際、コスパ等を意識したであろうか。俳優として舞台に立つ際、つまらない気持ちが芽生えたことがあっただろうか。生徒にとっていい授業、楽しい授業をしたいと考え、教材研究を行う際、めんどくさい感情が生まれてきたであろうか。社頭で神前奉仕を行う際、中途半端な気持ちで望んでいたであろうか。答えはすべてNOである。すべてが私にとって真剣勝負であり、喰うか喰われるか、KILL OR BE KILLEDの一発勝負であったはずである。お金が稼げるか、稼げないかの視座ではなく、自身の心が脈打ち、熱き血潮が沸き立つ瞬間こそが、私にとっての「働く」ことである。投げ銭が稼げなくともよい。舞台活動がお金にならなくともよい。正社員でなくとも、生徒の成長ないし喜びに寄与できればよい。非常勤神主であろうとも、今この瞬間「誠」の気持ちを捧げたい。そんな気持ちで20代—30代の前半を駆け抜けたように感じる。神社神道でいう「中今」の精神だったように我ながら感じる。

 世間の目線で論じれば大馬鹿ものであろう。親孝行もせず、就職もせず、東京を彷徨する根無し草として捉えられても致し方がないだろう。しかし、私にとって「働く」とは単に金銭を稼ぐことではなく、「情熱」そのものであったのだから。

 私は今春、椎間板ヘルニアを患った。思う通りに体が動かなくなった。身体が動かねば、仕事ができない。働きたくても働けない瞬間を初めて味わうことになった。これから、私の労働観は如何様に変化するのだろう。病気は人を変えるのだろうか。変えないのだろうか。身体の不自由は、精神、志まで枉げうるのだろうか。デカルト心身二元論、メルロポンティらの哲学をいくら繙いてみても答えは見つからないと直感している。

 オカルトめいた発言になってしまうのをお許し願いたい。これからの私の行末は、何か「運命」というものに導かれ、歩んでいく気がしてならない。

教育に関して目指すべき着地点(社会科)

 僕は、社会科という教科を通じて人間味あふれ、社会という概念を身体感覚で理解出来るような授業を心がけたいと思う。

 昨今アクティブラーニングなる双方向の授業、講義式ではなく生徒との対話を通じて授業を展開するスタイルを採用している学校が多いだろう。僕は概ねアクティブラーニングに賛成なのだが、形ばかりの討議、生徒間での浅い話し合いに帰結してしまう現状を多々目撃してきた。

 教師は人生の先輩として、多いに自らの人生を生徒につたえる、表現する責務があるのではないか。教師の人生観ないし世界観を通じて生徒は現代社会を考察し、歴史を省み、幅広い倫理観、哲学を身につけていくのだと僕は考える。講義式、劇化式など授業の方法論は様々であろう。 

 しかし、教師が確固たる哲学、人生観を持ちえずして他者に影響を与えることはできないであろう。畢竟、教師自身が常に向上心、素直な気持ちで日々を生き、生徒と共に成長する姿勢を持ち続けることが、生徒を導く上で肝要なことだと僕は考える。

 社会科は語句を丸暗記するための教科ではなく「社会」という荒野を生き抜くための羅針盤となりうる科目であると信じている。生徒一人一人とのコミュニケーションを大切に、社会科教育という道を歩みたく思う。もちろん、生徒の伴走者として。

オンライン「大重祭り」

7月22日(木・祝日・海の日)に、映画監督故大重潤一郎を偲び、その遺志とメッセージを確認する「オンライン大重祭り2021」を開催します。Zoomでの無料開催。私はパフォーマーとして参加させていただきます。誠心誠意演じたく思います。よろしくお願い致します。

https://phdmoon.sakura.ne.jp/ohshige/

 

なぜ人は歌うのだろうか

なぜ人は歌を歌うのだろうか。人間は歌を詠む、という以前に人間は、とりわけ現代人は、ひたすらに、ひたぶるに歌を歌っている。若者だけでなく、老若男女がカラオケボックに集い、歌う。NHKではのど自慢で己の力量をアマチュアニズム全開で世に知らしめる諸人を放映している。このように例をあげればきりがないほど、人間は、日本人は歌を愛し、歌と共に生き、成長し、死を迎えているといってよいだろう。そもそも「歌」とはなんだろうか。声を出し、唸っていれば歌なのか。そこが気になるところなのだ。演歌、フォークソング、合唱、ロックンロール、パンク、詩吟、思いつくだけでもたくさんある。それだけでもない。歌は演劇や能(謡い)、ミュージカル、映画、大道芸等の総合芸術の演出としても多々用いられている。歌そのものが主役級のコンテンツでありつつも、非常に汎用性が強いのだ。このことは日本人の生き様と多いに関連するものがあるのではあるまいかと、私自身勘ぐっている。日本は島国だ。“日本独特の文化”とはいうものの古来より日本は中国の影響を受け続け(和魂漢才)、明治以降は西洋の文化をせっせと吸収してきた(和魂洋才)というのが通説であろう。日本人には独特の融通無碍感というか、他国の長きを採用し、短きを補う的な発想や柔軟性、ないし他力本願的な感覚が染み付いている民族だと管見ながら解釈している。歌も、古来より日本は楽器にのせて浄瑠璃として歌ってきたのだろうし、現代ならアコギないしエレキギターにのせてラブ&ピースをジョンレノンを中心に発信してきた。楽器が主役か、歌(歌詞)が主役か判然としないが、歌を野球で例えるならばエースで四番バッターが主役で王様の役割を果たすことがあれば、九番ショートのようなつなぎ役ないし黒子の役割を果たすこともあるだろう(雑な例えsorry)。それだけ、日本の国のあちこちに、八百万の神々の如く存在し、輝きを放っているものが「歌」なのではないかと今更ながら感じ入るのである。続いて、日本における歌の歴史を考えてみたい。『古事記』に歌が詠まれている。スサノオが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る  その八重垣を」を歌ったのが、和歌の嚆矢と言われる。ひたすらに、執拗に、ヤエガキを連呼している。畳み掛けるリフレインが嬉しいなあ楽しいなあという気分を惹起させる。現代でいうと会いたくて会いたくて震えると歌った西野カナの如く、一本気な歌らしい歌であるといえるだろう。『古今和歌集』仮名序にはこのような記載がある。「力をもいれずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり」と。私は仮名序のこの箇所が大変気に入っている。デカルトの我思うゆえに我ありから紡がれた人間中心主義思想を背景に、人類は戦争を始め、物事を「力」で解決し、資本の力が世相を席巻している。この有様は悲しい哉現代社会のリアルな現実である。しかし、武士は喰わねど高楊枝的な発想かもしれないが、金や力だけでは心は動かぬこともあろうし、買えない側面もあるのではなかろうか。心のこもった「ありがとう」という言葉を聞くだけでも人の心は感動し、素敵な歌を聴いた瞬間、カタルシスが起こり滂沱の涙が溢れることがある。それだけ、歌には、人の心を動かすマジックパワーがある。『万葉集』で数多の歌が詠まれたように日本は古来より本の缶詰の中にたくさんの歌を保存してきた。現代に生きる我々は、幸いにも書を紐解いて、歌に触れることができる。先人が築いてきた「敷島の道」は日本人の感性の歴史でもある。昔の日本人も様々な場所で「のど自慢」をしていたと思うと、歌が大変身近なものに感じ、父祖の昔話を聞くが如く、私に迫ってくるのを感じる。コンテンポラリーソングとして『万葉集』ないし『古今和歌集』を解釈し、愉快に歌を詠み、生活の楽しみにしていきたい。

 

安易なラベリングは要注意

ワタクシ、縁あって現在中高一貫校の非常勤講師の仕事をしています。所謂学校のセンセイってやつですね。日々、若人と触れ合う中で思うことが多々あるのです。その中でも、一番気になっていることというか正直危惧していることを本日は書いていきたいと思います。「若い衆よ、発達障害ADHD多すぎませんか」ということです。誤解を恐れずに表現するならば、”病気持ち”の生徒ばっかりなのです。こーゆーことを書くと、人権侵害とか配慮が足りないとかごちゃごちゃ言う輩が湧きそうなので本来ならばオブラートに包んで表現すべきなのかもしれませんが、あまりにも疾患持ちのティーンエイジャーが多すぎます。もちろん本当にご病気で苦労されてるお子さんもいらっしゃるでしょう。実際いると思います。そこは留意すべきだと考えます。ただし、私が眉唾だと感じる事例としてあくまで一例ではありますが「私、発達障害なんです。」と気軽に言い放つ童がいるのですね。物事や学校生活がうまくいかないこと、学業の進捗不振を”発達障害”という様式に当てはめようとしていると私ならば解釈してしまいます。また、このような事例にとどまらず「病気になれば全て解決するんだ、見逃されるんだ、許されるんだ」といった精神性を生徒から感じることが多々あります。そのような雰囲気を醸し出すお子様はおしなべて大人しく、一見すると反抗的な態度もなく、従順な、所謂学校の先生好みの生徒のように見えます。しかしなのです。覇気や熱気がないのです。若人特有の克己心が備わることはなく、常にべったりと誰かにすがっているように思えます。まるで自ら病気に罹ろうとしているような,,否!病気を自ら獲得しようと試みているようにも見えるのです。大人も同罪です。己の心の安寧のため、医者に連れて行けば何らかの病名を診断してくれると踏んだ保護者、商売のために前途ある子供に安易な病気ラベリングを施すドクター、その趨勢を助長させる社会、皆共犯に思えてならないのです。安易なラベリングは危険です。うまくできないこと、うまくいかないことは本当は子供たちだけでなく人間にとって財産だと思うからです。”クセ”から個性というものが生まれ、個性によって子供達は生きる力を養えるはずです。しかし、安易に”発達障害”という定義付けを施してしまえば、せっかく育むはずだった大切な”個性”を潰しかねないと私自身強く思うのです。あなたの大切な個性は発達障害等の安易な病気に負けない、力強いものだったはずです。簡単に病気に逃げず、真剣に向き合って、ゆっくりじっくり育てていってほしいと心から願います。それがあなただけの”個性”なのです。

はじめまして

はじめまして。いきなりでなんですが私の名前の”尚志”は敬愛する祖父に名付けてもらいました。語源は中国古典の『孟子』の一節「何をか志を尚しとする。曰く仁義のみ」からとったそうです。志を高く持つ人間に育って欲しいという願いがあったようですね。祖父の切なる願いとは裏腹に私は20代前半より演劇活動にのめり込んだり、挙げ句の果てには大道芸人として活動をする社会的に見ればアナーキーな人間と化しておりました。世間から見ればハズレものである私にも、真面目に考え事をしたり、人間関係に関して考察したり、時には社会を論ずる瞬間が多々あるのです。ですので?このブログでは、私なりの日々の雑感を、『徒然草』や『枕草子』を執筆した吉田兼好清少納言の如く、書き連ねていきたく思います。祖父は生前、吉田松陰西郷隆盛を敬慕し、天下国家の問題を論じ、日本の行く末を本気で憂いておりました。私にはそんな大それた評論は身の丈に合わないと思うので、あくまでエッセイとして記していきたいと思います。それでは宜しくお願い致します。