安易なラベリングは要注意

ワタクシ、縁あって現在中高一貫校の非常勤講師の仕事をしています。所謂学校のセンセイってやつですね。日々、若人と触れ合う中で思うことが多々あるのです。その中でも、一番気になっていることというか正直危惧していることを本日は書いていきたいと思います。「若い衆よ、発達障害ADHD多すぎませんか」ということです。誤解を恐れずに表現するならば、”病気持ち”の生徒ばっかりなのです。こーゆーことを書くと、人権侵害とか配慮が足りないとかごちゃごちゃ言う輩が湧きそうなので本来ならばオブラートに包んで表現すべきなのかもしれませんが、あまりにも疾患持ちのティーンエイジャーが多すぎます。もちろん本当にご病気で苦労されてるお子さんもいらっしゃるでしょう。実際いると思います。そこは留意すべきだと考えます。ただし、私が眉唾だと感じる事例としてあくまで一例ではありますが「私、発達障害なんです。」と気軽に言い放つ童がいるのですね。物事や学校生活がうまくいかないこと、学業の進捗不振を”発達障害”という様式に当てはめようとしていると私ならば解釈してしまいます。また、このような事例にとどまらず「病気になれば全て解決するんだ、見逃されるんだ、許されるんだ」といった精神性を生徒から感じることが多々あります。そのような雰囲気を醸し出すお子様はおしなべて大人しく、一見すると反抗的な態度もなく、従順な、所謂学校の先生好みの生徒のように見えます。しかしなのです。覇気や熱気がないのです。若人特有の克己心が備わることはなく、常にべったりと誰かにすがっているように思えます。まるで自ら病気に罹ろうとしているような,,否!病気を自ら獲得しようと試みているようにも見えるのです。大人も同罪です。己の心の安寧のため、医者に連れて行けば何らかの病名を診断してくれると踏んだ保護者、商売のために前途ある子供に安易な病気ラベリングを施すドクター、その趨勢を助長させる社会、皆共犯に思えてならないのです。安易なラベリングは危険です。うまくできないこと、うまくいかないことは本当は子供たちだけでなく人間にとって財産だと思うからです。”クセ”から個性というものが生まれ、個性によって子供達は生きる力を養えるはずです。しかし、安易に”発達障害”という定義付けを施してしまえば、せっかく育むはずだった大切な”個性”を潰しかねないと私自身強く思うのです。あなたの大切な個性は発達障害等の安易な病気に負けない、力強いものだったはずです。簡単に病気に逃げず、真剣に向き合って、ゆっくりじっくり育てていってほしいと心から願います。それがあなただけの”個性”なのです。